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■死(ミルトスのサイトより)

 ユダヤ人の生活の中のユダヤ教を語るとき、最後はどうしても「死」を避けるわけにはいきません。しかしユダヤ人が死をどのようにとらえているかは、重いテーマであるだけに、本来なら非ユダヤ人である私たちがその説明をするのは適任でありません。

 不十分ながら、葬儀や服喪に関するユダヤ教のしきたりを解説するにとどめます。ただし、ユダヤ教において際立っていることは、悲しみと痛みにある残された者たちへの配慮です。愛する、またかけがえのない人を失った損失に耐えて、精神的に回復し、人生を生き続け、死者への畏敬の念を保ち、故人への記憶を永続するために、伝統的しきたりが見事に工夫されています。

■「死」についての考え方

 創世記の初めに、人間の創造の物語があります。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2:7)という有名な箇所が出てきますが、人間はちりと息より成り立っている、という人間観がここにあります。息のヘブライ語はルーアハと言って、時には「風」とも「霊」とも訳される語です。

 ところで、聖書は人の死については「なんじ、ちりなれば、ちりに帰るべし」(創世記3:19)とふれているだけです。伝道の書は、人の一生をやや虚無的に語っているとも指摘される書ですが、「ちりは、もとのようにちりに帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道の書12:7)と創世記の思想を要約しています。

 ユダヤ教は、死を現実の事実として受け入れています。また、キリスト教や仏教のような天国とか来世とかを教理として説きません。この現実に生きる世界に理想の国をつくることを願って、そのために地上での生き方を教えています。メシアが地上に現れ、地上がメシアの国になる日を祈っていますが、時間的に未来の事であって、あくまでこの世において実現するとしているのです。

 しかし、死と共に人間の尊厳が終わるとも、ユダヤ人は考えていないようです。旧約聖書には来世の明白な意識は表れていませんが、死者を丁重に畏敬の念をもって扱っています。族長のアブラハムやヤコブ、ヨセフの物語からもそれが推察されます。

 第二神殿時代(紀元前539年~紀元70年)において、メシア待望の信仰がひろまると、メシアが来るとき一緒に復活するとの希望から、エルサレムに埋葬されることを熱心なユダヤ教徒は願うようになりました。来世思想の芽生えです。しかし、人は死んでから次の世界に復活するというキリスト教的来世観とは、ニュアンスが違うようです。

 それぞれの宗教における死に対する考え方は、逆説的に、生きている者が何をなすかの慣習を通してうかがえるとも言えます。ユダヤ教の場合、歴史を通してラビたちの知恵が結集され、死者への畏敬と遺族への慰めのための律法が数々定められました。

■死(ミルトスのサイトより)
★『やさしいユダヤ教Q&A』(ミルトス)もご参照ください★

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